2014年1月2日木曜日

http://ja.wikipedia.org/wiki/ウイグル text

※「Uyghur」のページはよく書き換えられるようですので、記録しておきますね。


ウイグル



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曖昧さ回避
この項目では、包括的なウイグルについて記述しています。中華人民共和国の行政区分については「新疆ウイグル自治区」を、言語については「ウイグル語」を、文字については「ウイグル文字」をご覧ください。

ウイグル(Uyghur)は、4世紀~13世紀に中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族。20世紀、民族名として「ウイグル」の呼称が復活した(後述)。

ウイグル
ئۇيغۇر / Uyghur /维吾尔/ Уйғур

総人口
11,552,000

居住地域
中国
11,195,000
[1]
カザフスタン
230,000
[1]
ウズベキスタン
51,000
[1]
キルギス
49,000
[1]
サウジアラビア
7,700
[1]
イラン
5,700
[1]
アフガニスタン
4,300
[1]
ロシア
3,700
[1]
トルクメニスタン
2,100
[1]
アメリカ
1,000
[1]
タジキスタン
800
[1]
トルコ
800
[1]
オーストラリア
400
[1]
ウクライナ
300
[1]
台湾
200
[1]

言語
ウイグル語

宗教
イスラム教スンナ派[2]

関連する民族
テュルク

脚注
^ a b c d e f g h i j k l m n o “Joshua Project - Uyghur Ethnic People in all Countries”. 2013年9月6日閲覧。

(2013年現在における推計人口)
^ CNN.com - Xinjiang: On the new frontier - Apr 21, 2005

目次

1 名称
2 歴史
2.1 伝承・古代
2.2 高車時代(袁紇部)
2.3 鉄勒時代(回紇部)
2.4 回鶻可汗国
2.5 回鶻可汗国の崩壊後
2.6 天山ウイグル
2.7 現代ウイグル
3 政治体制
3.1 君主号
3.2 官職
3.3 歴代指導者の一覧
4 文化
4.1 言語
4.2 文字
5 宗教
5.1 シャーマニズム
5.2 上天神信仰
5.3 マニ教
5.4 仏教
5.5 イスラム教
6 脚注
6.1 脚注
6.2 出典
7 参考資料
8 関連項目
9 外部リンク
名称

「ウイグル」という名称は初め、中国の史書によって伝えられており、袁紇[1],烏護[2],烏紇[2],韋紇[3],迴紇[4],回紇[5],迴鶻[4],回鶻[5]などと表記されてきた。

やがてテュルク系遊牧民自身でも文字(突厥文字)を使って物事を記すようになると、Old turkic letter O.pngOld turkic letter Y1.pngOld turkic letter G1.pngOld turkic letter R1.png(Uγur)[6]と表記した。

イルハン朝の政治家ラシード・ウッディーンはその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とはテュルク語で「同盟」・「協力」の意であると記している。

歴史

伝承・古代

ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。[7]
ラシードゥッディーン『集史』ウイグル部族誌

伝承:「ノアの子のアブルチャ・カン即ちヤフェトの子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子のオグズ[8]は、唯一神(アッラー)のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。彼は大会を開き、親族・異姓の集団・戦士達を鎮撫し、共に戦った親族の人々に“ウイグル”の名を授けた」[9]。

古代:「ウイグリスターン地方(wilāyat-i Ūyghūristān)には2つの非常に大きな山があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間にはカラコルム山(kūh-i Qarāqūrum)が鎮座し、カアン(Qā'ān;オゴデイのこと)が建てられた都市はその山の名前にちなんで呼ばれている。その山のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼ばれている山がある。その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。古い時代には、ウイグル諸部族の居住地は、これらの諸河川や山々や荒野(ṣuḥrā-hā)にあった。この10本の河にすむものたちがおり彼らはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)と呼ばれ、9本の河にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼ばれている[10]。この10本の河はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)[11]と呼ばれている。それらの名前を以下に説明すると、 اييشلك Aīīšlik(部族)、 اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)である。3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある。 その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。数世代経ったがウイグル諸部族には決まった君長(pādshāhī wa sar-varī)が居らず、各部が武力争奪を始めると別の集団から長を立てていた。後に各部が共同利益の為に会議を開き、全体に命令を発する1人の全権君主(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分達の中から出すことを決議。全会一致で満場の意を受けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部から最も聡明なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī )を選出、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号を授けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部から品質性格の良好な人物を選んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号を授けた。彼等二人は全民族と諸部族の君主(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等の一族(ūrūgh/uruq)が100年間統治した[12]。」
アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』

「カラコルムから発するトグラ河とセレンガ河が合流するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双樹があった。双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。やがて丘陵が開き、天幕張りの5つの部屋が現れると各々に一人の子供が座っていた。5人の子供はこの土地の人々から王子と同じように尊敬され、長男はソンクル・テギン( سنقر تكين Sunqur Takīn /Sonqur Tegin),次男はクトル・テギン( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin),三男はブカク・テギン( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin),四男はオル・テギン( اور تكين Ūr Takīn /Or Tegin),五男はブク・テギン( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名された。ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼ら3の一人を君主に戴くことにした。そこで、末子のブク・テギンが美貌と才智に最も秀で、あらゆる言語と文字に通じていたので、ウイグル人は彼を推戴してカン( خان Khān)とし、大祭を催して玉座に就かせた」[13]

高車時代(袁紇部)

中国史書においてウイグルの名が初めて現れるのは4世紀の高車袁紇部[14]としてである。「高車」とは4~6世紀の中国(北朝)におけるテュルク系遊牧民の総称であり、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する[15]。袁紇部は4世紀末から5世紀初頭に柔然の従属下にあって北魏と数度戦ったが、いずれも大敗を喫して壊滅的な被害を被り[16]、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。

鉄勒時代(回紇部)

6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は中央ユーラシアを支配していた突厥可汗国に対し、その趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争った。

648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と血縁にあった親突厥の烏紇と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。

7世紀後半に後突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年に毘伽可汗が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年に骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼした。

回鶻可汗国

詳細は「回鶻」を参照

こうして回鶻可汗国(744年 - 840年)を建国した骨力裴羅は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承され、唐とも友好な関係を築き、絹馬貿易とシルクロード交易を発展させた。また、回鶻可汗国では懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。

回鶻可汗国の崩壊後

回鶻可汗国は天災と内部紛争によって崩壊し、その一部は西の葛邏禄(カルルク)へ逃れたり、吐蕃,安西(タリム盆地)へ逃れたりした。このうち、カルルクに逃れた者たちはのちにテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国したものと思われる。吐蕃に逃れた者たちは河西(現在の甘粛省)に割拠し、甘州(張掖)を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成し、1028年のタングートによる甘州陥落まで勢力を保つ。現在、中華人民共和国領の甘粛省の西部に居住するテュルク系民族のユグル族(裕固族)は、このとき甘粛に移住したウイグルの末裔とされている。

天山ウイグル

詳細は「天山ウイグル王国」を参照
安西に割拠した者たちは天山ウイグル汗国を建国してこの地で定住化し、「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧の時代からソグド人の影響でマニ教を尊崇したが、中央アジアに入った者は仏教も信仰し、イスラム教勢力と接する中央アジアの一角で独自の文化を築き上げた。この天山ウイグル王国は12世紀までは独立した国家であったが、東から来た西遼(カラ・キタイ)、つづくモンゴルといった新たな遊牧国家に服属するようになり、13世紀には完全に消滅した。

現代ウイグル

20世紀になって、かつての天山ウイグル王国と、カラハン朝の支配していた地域にあたる東トルキスタンのテュルク系言語を話すイスラム教徒のオアシス定住民たちの中から、その統一的な民族名称として滅び去ったウイグルの名が再び見出され、1935年に民族名称として採用された。この地域が中華人民共和国に管理された後、彼らの民族名称は中央政府によってウイグル族(維吾爾族、维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている[17]。
政治体制

君主号

「ハーン」も参照
ウイグルの君主は突厥と同様に可汗(カガン:Qaγan)といい、中国で言う皇帝にあたる。皇后にあたるのは可敦(カトゥン:Qatun)という。
天山ウイグル王国の中期まではカガン(Qaγan)、ハン(χan)やイリグ (Ilig)(il+lig:「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、後期になると「カガン(Qaγan、可汗)」から「イディクト(Ïduq qut > Ïdï qut > Ī dī qūt、亦都護)」(「幸いの主」、「神聖なる吉祥」の意味[18])という称号を用いるようになった。

官職

他種族や他国の首領にあたるのは大俟斤(Ulugh erkin)といい、身分としては匐(bāg)などがあり、官職としては以下などがあった。[19]

葉護(ヤブグ:Yabγu)…最高位の爵位、近親者のみが与えられた、実権は無し。

設(シャド:šad)…非回紇諸部の兵権を司る官職、東部の突利施(töliš)設と西部の達頭(turduš)設が置かれた。

特勤(テギン:Tägin)…突厥語で奴隷の意、転じて可汗の子弟。実権の無い爵位、設と同程度の地位。

都督(トゥトゥク:tutuq)…主要部族の部族長

大相…筆頭宰相

宰相…十回紇の貴族から選ばれる内宰相3名と外宰相6名からなり、使節や可汗庭に於いて兵を
監督する官職。

将軍(センギュン:sängÜn)…実権の無い爵位。

達干(タルカン:Tarqan)…十回紇の貴族から選ばれ、兵馬の監督や唐への使節を担う官職。突厥の(bāg)

監使…可汗の親族か十回紇の貴族から選ばれ、征服された他部族や他国からの徴税、労役の割
当を担当する官職。突厥でいう吐屯。

梅緑(ブイルク:buïruq)…近衛兵や伝令を務める官職。

啜(チュル:Čur)…可汗の一族から選ばれ、軍事全般を担う官職。

俟斤・俟利発(イルテベル:Ëltäbir)…征服した民族の部族長

阿波(アパ:apa)


歴代指導者の一覧

回紇部

俟斤(イルキン)、頡利発(イルテベル)

特健(時健)俟斤

活頡利発(菩薩)(627年 - 646年)…特健俟斤の子

胡禄頡利発(吐迷度)(646年 - 648年)…菩薩の子、瀚海都督、左驍大将軍。

烏紇…吐迷度の甥、突厥・車鼻可汗の婿。

婆閏(648年 - 661年)…吐迷度の子、瀚海都督。

比粟毒(661年 - 680年)…婆閏の子(甥)、瀚海都督。

獨解支(680年 - 695年)…比栗の子、瀚海都督。

伏帝匐(695年 - 719年)…獨解支の子、瀚海都督。

承宗(719年 - 727年)…伏帝匐の子、瀚海都督。

伏帝難(727年)…承宗の子、瀚海都督。

護輸…承宗の一族、頡利発

葉護頡利吐発(骨力裴羅)…承宗の子

回鶻可汗国の可汗(カガン)

懐仁可汗(骨力裴羅)(744年 - 747年)

英武威遠可汗(葛勒可汗)(747年 - 759年)

英義建功可汗(牟羽可汗)(759年 - 779年)

武義成功可汗(長寿天親可汗)(779年 - 789年)

忠貞可汗(789年 - 790年)

奉誠可汗(790年 - 795年)

懐信可汗(795年 - 805年)

滕里野合倶録毘伽可汗(805年 - 808年)

保義可汗(808年 - 821年)

崇徳可汗(821年 - 824年)

昭礼可汗(824年 - 832年)

彰信可汗(832年 - 839年)

㕎馺可汗[注 1](839年 - 840年)

烏介可汗(841年 - 846年)

遏捻可汗(846年 - 848年)

甘州(河西)ウイグル王国

権知可汗、甘沙州回鶻可汗、可汗王

英義可汗(仁美)(? - 924年)

烏母主可汗(狄銀、テギン)(924年 - 926年)…仁美の弟

阿咄欲(926年 - 939年)

順化可汗(仁裕、奉化可汗)(926年 - 959年)…仁美の弟

景瓊(959年 - ?)…仁裕の子

夜落紇密礼遏(? - ?)

禄勝(? - ?)

夜落紇(夜落隔、忠順保徳可汗王)(? - 1016年)

夜落隔帰化(1016年 - ?)

夜落隔通順(帰忠保順可汗王)(? - ?)

西州(天山)ウイグル王国の克韓王

ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン(龐特勤)(844年 - 856年頃)

トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ(? - 954年 - ?)

トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン(? - 983年 - ?)

ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ(996年 - ?)

キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリケニミズ(? - 1007年 - ?)

キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥル・キョル・ビルゲ・クチャ・ハン( 1017年 - 1024年頃)
キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・ウチュンチュ・アルスラン・ビルゲ・ハン(? - ?)
テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(? - 1067年 - ?)
喝里・ハン(1127年頃 - ?)
華勒哥・王(1130年頃 - ?)
月仙・帖木児・亦都護(? - 1209年頃)
モンゴル領
バルチュク・アルトゥン・亦都護(1209年頃 - 1229年)…月仙帖木児の子、1209年モンゴルに帰順
キシマイン・亦都護(1229年 - 1241年)…アルトゥンの子
サリンディ・亦都護(1242年 - 1252年)…キシマイン弟
ケスメズ(1242年 - 1246年)
オグリュンチ(1252年 - 1257年)…サリンディ弟
マムラク・テギン(1257年 - 1265年)…オグリュンチの子
コスカル(1266年 - 1280年)…マムラクの子
ネギュリル・テギン(1280年 - 1318年)…コスカルの子、1308年大元封-亦都護、1316年高昌王
『亦都護高昌王世勲碑』に見えるイドゥク・クト
テムル・ブカ(1318年 - 1329年)…ネギュリルの長子、高昌王
センギ・テギン(1329年 - 1331年)…テムル・ブカの弟、高昌王
タイピンドゥ(1331年 - ?)…センギ・テギンの弟
エル・テムル(? - 1353年)
セング・亦都護(1353年 - ?)
『大宗正府也可札魯火赤高昌王神道碑』に見える高昌王
月魯哥
14世紀前半『ウイグル語印刷仏典奥書』に現れるイドゥク・クト(亦都護)[20]
キラシス・イドゥク・クト(? - 1309/18年)
コンチョグ・イドゥク・クト(1309/18年 - 1326/34年)
チャガタイ汗国領イドゥク・クト(亦都護)
?イドゥククト(1339年頃)
チン・テムル・イドゥク・クト(1352年 - 1348/60年)
清末民初
新疆都督
袁大化
中華民国時代
楊増新(1912年、新疆都督。1928年、南京国民政府から新疆省長に任命)
金樹仁
盛世才(1933-1944)
東トルキスタン・イスラーム共和国大統領
ホージャ・ニヤーズ(1933年 - 1934年)
東トルキスタン共和国主席
アリー・ハーン・トラ(イリハン・トレ)(1944年 - 1947年)
新疆省連合政権主席
張治中(1947年 - 1948年)
マスード・サブリ(1948年)
イリ政権
アフメトジャン・カスィミ(1948年 - 1949年)


文化

言語
詳細は「ウイグル語」を参照

回紇部および回鶻可汗国時代までは、突厥と同じ古代テュルク(突厥)語を話していたと思われる[21]。天山ウイグル王国時代(9世紀 - 16世紀頃)になると、その言語はウイグル文字で表記される古代ウイグル語となる。現在、タリム盆地などで話されている新ウイグル語(現代ウイグル語)はテュルク諸語のひとつであるが、言語学者の分類するところによれば、若干古代ウイグル語と系統が異なるとされ、使用される地域の分布も若干異なる。

文字
詳細は「ウイグル文字」を参照

文字は突厥第二可汗国時代の突厥文字をそのまま流用し、『テス碑文』,『タリアト碑文』,『シネ・ウス碑文』,『カラ・バルガスン碑文』などを残した。また、バイ・バリクやオルド・バリクといった城郭都市を建設し、新たに「遊牧都城文化」ともいうべき[22]文化形態を生みだした。
天山ウイグル王国ではソグド人が用いていたアラム文字の系統に属すソグド文字の草書体から派生したウイグル文字を用いて自らの言語を書き表すなど、独自な文化を発達させる。また、チンカイ、タタトゥンガ(塔塔統阿)を始め、多くのウイグル人がモンゴル帝国に仕え、ウイグル文字がモンゴル語を筆記するために導入(モンゴル文字)されるなど、モンゴル帝国の発展に多大な影響を及ぼした。

宗教

シャーマニズム
ウイグル人は北アジアに広く見られる狼・鳥・大樹などの信仰をしており、「カム」と呼ばれる巫術師(シャーマン)がいた。カムは鬼神を自由に扱い、鬼神を通じて現在未来に起こるすべての物事に精通していると称した。鬼神は帳幕の天窓から入って来てカムたちと言葉を交わし、親密な関係となって一体化した。また、カムは病気を治療する能力も持っていた。
現代でもシャーマニズムの儀式の名残が見られ、現代ウイグル人の民族舞踊の一つ「サマ踊り (Sama Usuli)」はシャーマンの儀式に由来するとされ、ウイグル南部には呪術師バックシが存在する。

上天神信仰
天神を頂点として、乌女神や大地神など気象を司る神々を崇拝する多神教信仰も行っていた。

マニ教
ウイグル可汗国では第3代牟羽可汗(在位:759年 - 779年)の時に初めてマニ教を受容し、ソグド人官僚を多く採用した。しかし、それらの政策に不満を持つ勢力によって牟羽可汗が殺され、マニ教とソグド人は弾圧された。以降、マニ教は一旦息をひそめるが、第7代懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代に再び受け入れられ、ついに国教となった。可汗国の崩壊後も天山ウイグル王国でマニ教は信仰された。

仏教
天山ウイグル王国では10世紀頃までマニ教の信仰が維持され、周辺のオアシス都市の仏教勢力と共存していたが、10世紀後半から11世紀にかけてウイグル支配層の仏教への改宗が進み、仏教国家化した。

イスラム教
現在の新疆に住むウイグルはほぼ全員がスンナ派イスラム教を信仰しているが、これは天山ウイグル王国の滅亡後、数々のイスラーム王朝がこの地を支配したためである。その際、仏教寺院は破壊され、仏教壁画の眼や顔の部分がそぎ落とされた。

脚注

脚注
^ 「㕎」は「厂+盍」と書く。
出典
^ 『魏書』太祖武帝記・列伝第九十一 高車、『北史』列伝第八十六 高車
^ a b 『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上
^ 『隋書』列伝第四十九 北狄、『北史』列伝第八十七 鉄勒
^ a b 『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇
^ a b 『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下
^ 『テス碑文』。「Old turkic letter O.pngOld turkic letter Y1.pngOld turkic letter G1.pngOld turkic letter R1.png」は右から左へ読む。
^ アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン『集史』(1314年編纂)がそれで、特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セム、ハム、ヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。
^ " اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam."(Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331; Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 138.)
^ Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331;Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 138.
^ on はテュルク語で数詞の「10」の意味で、tuγuz は同じく数詞の「9」の意味である。
^ M. Rawshan & M. Mūsavī,本に従う。Али-Заде本本文では最初のアリフにはシャクルが振られていないので「アルグン(Arghūn)」とも読めそうだが、Али-Заде本335頁註3によると اورقون ūrghūnとしている写本もあるため、M. Rawshan & M. Mūsavī,本の読みに従った。
^ Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331-332;Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 139-140. ; ドーソン『モンゴル帝国史』第1巻(訳注:佐口透)平凡社、1968年、326頁。
^ Tārīkh-i Jahān-gushā/Qazwíní, p. 40-41;Tārīkh-i Jahān-gushā/Boyle, p. 55-57 ; ドーソン『モンゴル帝国史』第1巻(訳注:佐口透)平凡社、1968年、320-321頁。
^ 『魏書』、『北史』
^ 『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六
^ 《『魏書』道武帝紀》「390年に道武帝が北伐を行って高車袁紇部を大いに破り、多数の奴隷と馬牛羊20万頭余を得る」
^ 実際には、中世以前のウイグルの人々と、現代のウイグル民族に直接の系譜的な繋がりがあるかどうかは明らかではない。現代のウイグル民族の話すウイグル語は、中世以前のウイグル人が書き残したウイグル語とはテュルク語の中でも系統を異にしているとされている。
^ 杉山 2003
^ 『キョル・テギン碑文』
^ 中村 2009
^ 『テス碑文』,『タリアト碑文』,『シネ・ウス碑文』,『カラ・バルガスン碑文』
^ 村上正二が提唱。
参考資料

『魏書』(列伝第九十一 高車)
『隋書』(列伝第四十九 北狄)
『北史』(列伝第八十六 高車、列伝第八十七 鉄勒)
『旧唐書』(列伝第一百四十五 迴紇)
『新唐書』(列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下)
『旧五代史』(外国列伝二)
『新五代史』(四夷附録第三)
『宋史』(列伝第二百四十九 外国六)
三上次男・護雅夫・佐久間重男『人類文化史4 中国文明と内陸アジア』(講談社、1974年)
コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(平凡社、1976年)
榎一雄『講座敦煌2 敦煌の歴史』(大東出版社、1980年、ISBN 13200303074384)
山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社、2007年、ISBN 9784062807050)
楊経敏『回紇史』(広西師范大学出版社、2008年、ISBN 978-7-5633-7451-9)
アター=マリク・ジュワイニー『世界征服者の歴史(Tārīkh-i Jahān-gushā)』
(ed.) Mírzá Muḥammad Qazwíní, The Taʾríkh-i-jahán-gushá of ʿAláʾu ʾd-Dín ʿAṭá Malik-i-Juwayní, vol. 1, (Layden, 1912)
(tr.) John Andrew Boyle, The History of the World-Conqueror by ʿAla-ad-Din ʿAta-Malik Juvaini, vol. 1, (Manchester, 1958)
ラシードゥッディーン・ハマダーニー『集史』(Jāmiʿ al-tavārīkh)
(ed.) А.А. Али-Заде, Джа̄миʿ ат-тава̄рӣх̮, том. 1. часть. 1, (Москва, 1968) 
(ed.) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] )
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