2014年1月5日日曜日

「アダムの子孫のうち正しきもの・善人・神を信じるものは1割にしか過ぎず、 あとは・・・」 何で世界がウイグルを助けないか~ユーラシアの心臓部にて~・2-2



「ノアの子のアブルチャ・カン即ちヤフェトの子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子のオグズは、唯一神(アッラー)のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けた」

ラシードゥッディーン『集史』ウイグル部族誌
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウイグル



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「アダムの子孫のうち正しきもの・善人・神を信じるものは1割にしか過ぎず、
あとは・・・」

ウイグル人のご先祖であるこのオグズさんは史記や漢書にも載っているんですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4


脚注18
  1. ^ 「烏掲」,「呼偈」とも記され、のちのテュルク系民族オグズ(Oγuz)の祖先とされる。《『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18》


>西域を支配下に置く

>紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪をはたらいた。そのため、漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせた。

>白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。

>この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、楼蘭,烏孫,呼揭[18]および西域26国を匈奴の支配下に収めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4


>黄龍元年(前49年)頃、郅支単于は、南下した呼韓邪単于がすぐに戻ることはあるまいと考え、右地(西部)に進軍したところ、屠耆単于の小弟である伊利目単于と遭遇し、戦闘となり、伊利目単于を殺し、その兵5万余人を併合した。

>郅支単于は呼韓邪単于が漢に擁護されたと知ると、そのまま右地に留まった。しかし、このままでは自立不可能と考えた郅支単于は、西の烏孫に助力を求めようと、使者を小昆弥(烏孫の君主号)の烏就屠のもとへ送った。

>烏就屠は呼韓邪単于が漢に擁護されている半面、郅支単于が民衆をなくしているのを見ると、郅支単于の使者を殺し、その頭を西域都護治所に送りつけ、8千騎を発して郅支単于を迎え撃った。

>郅支単于は隊伍を指揮し、逆に烏孫を撃破し、これに乗じて北の烏掲を撃って降し、その兵を使ってさらに西の堅昆を破り、北の丁令を降して烏掲・堅昆・丁令の三国を併合した。

>その後も何度か烏孫に兵を派遣して、勝利し続けたので、郅支単于は堅昆の地に都を遷した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%84%E6%94%AF%E5%8D%98%E4%BA%8E


ユーラシア最強の匈奴に西方侵略のついでに征服されていました^^;


で、この「匈奴」なんですが、

語源[編集]

「匈奴」というのは彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており[1]、その語源については諸説ある。[2]
  • 葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説[3]
  • 「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(Chiun-yü)」からきているとする説[4]。 ※ただし史記の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔となる、あくまで根拠の示されないお伽話であり信憑性は無い[5]
  • 「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」「胡貉」「昆夷」「玁狁」に当てたとする説[6]
  • 匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノヨン・オール(ノインウラ)匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説[2]
また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたからついた河川名なのかは不明である。[2]

読み[編集]

現在、「匈奴」は日本語の漢音で「きょうど」と読まれ、中国語では「ションヌゥ(Xiōngnú)」と読まれている。各国の読みも中国語に準じて「Xiongnu」としている。これらは現在の読みであり、研究者によれば「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」が「匈奴」の当時の発音と推測されている[7]
  • ドイツのG.Halounは古代中国語では「xbron-no」であったとした。
  • 白鳥庫吉は「奴(ヌ・ド)」の字が古代中国では「ナ」と発音され「Hu-na」,「Hun-na」であったとした[8]
  • 桑原鷺蔵は「Hunni」であったとした[9]
  • 内田吟風は、ほぼ「flōŋ-nah」であったとし、フンを指すギリシア語の「Φροῦνοι」と関連し、ソグド人前趙の匈奴人を「フン」と呼んでいたことと合わせ、「匈奴」の古代音は「フン」ないし「フルノイ」に近いものであったとした[10]
その他、欧ソの学者が断片的に様々な論考をした。
「フンナ(Hun-na)」説に関しては、五胡十六国時代タリム盆地などにおいて匈奴人(前趙)のことを「フン」と呼んでいた事などから[11]、18世紀から現代に至るまで直接的に結びつける物から一部に関連があったとする物まで、様々な匈奴とフン族を結び付ける説(フン=匈奴説)が提唱されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4

どうも「ゴグ」の語感にちらちら触れるものがありますね。

HとGとKの音って、転訛しやすいんですよね。

それぞれ、同じ形に口をすぼめて、口の中を息が吹きぬけるタイミングと声を出すタイミングを僅かにずらすだけで、「ヒュ」「ギュ」「ユ」「ジュ」「グ」「フ」「ク」と発音が変わってきます。


匈奴と同じ民族から成り立っていると看做されたキルギスは、どうでしょうか。

>クルグズ(キルギス)の語源は「кырк(クィールク)」が40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつて「гунны(グンヌィ、匈奴)」と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。

>1世紀ごろ - 匈奴の支配下に入る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%B9


ちなみにウイグルは

>8世紀 - 回鶻の支配下に入る。
>9世紀 - 回鶻を滅ぼす。


匈奴の祖先は
  • 葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説[3]
  • 「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(Chiun-yü)」からきているとする説[4]。 ※ただし史記の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔となる、あくまで根拠の示されないお伽話であり信憑性は無い

匈奴

『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった[16]


^ 内田吟風他訳『騎馬民族史』平凡社東洋文庫、1971年。また後漢書六夷伝のうち南匈奴伝参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)


>匈奴
>『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった


? 「淳維」って誰。

「葷粥」じゃないの?

夏后氏って、夏の王族だったんですね。

[夏(前2070?~前1600?)]
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu003.html


「葷粥」について。

>葷粥(くんいく、拼音:Xūnyù/Hūnzhōu)は、かつて中国の北方に住んでいたとされる遊牧民族。>匈奴の前身と考えられている。

>『晋書』四夷伝に「夏は薰鬻といい、殷は鬼方といい、周は獫狁といい、漢は匈奴といった」とあるように、薰鬻,鬼方,獫狁,匈奴の語は同じものを指すように思われる。しかし、中国の史書にはしばしば「獫狁、葷粥」と併記されることから、この2つは別の部族ということになる。この2つの部族は後にモンゴル高原を統一した匈奴の前身とされているが、詳しいことはわかっていない

>『史記索隠』において「楽彦括地譜は云う、夏の桀王は無道なため、殷の湯王により鳴條へ放逐され、三年して死んだ。その子の獯粥(葷粥)は桀王の妾を妻とし、北野へ避居して遊牧生活を始めた」とあり、獯粥(葷粥)はもともと人の名であり、夏の桀王の子であることがわかる。すなわち葷粥とはその始祖からとった部族名であることがわかる

>葷粥についてもっとも古く現れているのは『孟子』梁恵王下に「周の大王こと古公亶甫が獯鬻に仕え…」とあるのが初見である。ここでは斉の宣王(在位:紀元前319年 - 紀元前301年)が孟子に「隣国と交際する正しい道はあるでしょうか」と尋ねたところ、孟子が「智の人だけが小国でも大国と上手に交際できる」ということを例えるために引用した故事に登場する。この故事はのちの『史記』にも収録されている。

>黄帝の時代、葷粥は黄帝の統一事業の際に北へと駆逐される。
唐虞(陶唐氏の堯と有虞氏の舜)の時代、中国北方には山戎,獫狁,葷粥の3族があり、いずれも遊牧民族であった。

>周の先王時代、古公亶父は領民に対し、徳を積んだ政治をおこなっていたが、あるとき薰育,戎,狄の3族の襲撃に遭い、「領民を戦争に駆り出してまで君主にはなりたくない」と言って、国都である豳(ひん)[8]を去って岐山の麓に移った。しかし、豳の領民たちは彼を慕って岐山の麓に移住し、さらに近くの人民たちも古公亶父の噂を聞きつけて岐山の麓に移住してきた。ここにおいて古公亶父は戎狄の風俗を卑しいとして退け、初めて城郭や家屋を築き、邑を区画して国を治めたという。

>以降の葷粥は匈奴と名を変え、モンゴル史上初となる大遊牧国家を築くこととなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B7%E7%B2%A5

(※弱腰外交は後の災いになるようです。)


でも葷粥と淳維、どちらが匈奴の祖先なの?


>この獯粥は、夏王ケツの子だから、夏后氏です。なぜ、匈奴とするのか、おかしい限りで、なにかワケがありそうです。

>A史記では、烏孫の昆莫の父を匈奴が討った。
>B漢書では、烏孫の昆莫の父を大月氏が討った。

>A史記。薫育と妾の子:匈奴:淳維・・・匈奴の始祖で、殷初時代。
>B漢書。夏王の本妻の子:夏后:薫育・・上記と同じ時代。

>Aの匈奴は、夏后氏の苗裔だから、遡ると大月氏の後裔が討った事になる。
>Bの大月氏は、夏后氏の後裔だから、夏后の本家筋か分家筋が討った。

>(小月氏は、虞舜の系統で、夏王と全く違います。大月氏は、月支胡ともいうから、支は、夏后氏の分家です。)

>薫育は、ケツ王の妾を妻として遊牧して、妾は北匈奴の娘で、淳維を生んだのでしょう。
>当時は、女性の姓を取り、名は淳維となり、匈奴の初代でした。これが北匈奴の皇后家の閼(アッ)氏ではないか。北匈奴が匈奴の本家筋でした。姓は閼。名は淳維。

>ケツ王の妾は、匈奴の女で、ケツ王の子薫育と妾の子が、誕生して淳維となったのでしょう。

>この件は、次の史書で確かめられます。
>魏書列伝、悦般は北匈奴の子孫で、のちにエフタル(白フン)になった。
>北史列伝、悦般の子孫は、北匈奴の部落である。

>系図

>1大康の弟5人・既に夏の分家・・・・・大月氏:月支胡:先に遊牧。
>2ケツ王と本妻の子:夏本家の薫育・・・夏滅殷初、大月氏の本家へ合体。
>3薫育と妾(匈奴)の子:淳維・・・・・北匈奴:大月氏本家の腹違い。
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/5187525.html


はあ・・・桀王のお孫さんだったんですね。

息子さんの葷粥に匈奴出身のお妾さんを取られて、生まれたのが淳維、この子がお母さんの実家で養育され、後にエフタルになったのでしょうか。

それにしても、古今東西長男が家をついで次男坊三男棒は周辺諸国をフラフラ遊牧、というのは必然の成り行きなんですね。

















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