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ヨセフスはスキタイ人の先祖は「マゴグ」だといっていますが、「スキタイ」の語源はゴメルの子アシュケナズの「ア」が取れて訛ったもののようです。
>考古学者たちは,アシュケナズという名前がアッシリア語のアシュグザイに相当すると考えています。このアシュグザイという語は黒海やカスピ海地方の古代スキタイ人を指して用いられていたようです。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200000423
つまり、
「アシュケナズ」から頭韻の「A」と「NA」取れてスキタイになり
更に「S」が取れて、キタイ・契丹になったのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
なるほど、やっと「シオニストのご先祖がスキタイ人だと聞いて」で引用した記事と繋がりました。
ただ、バビロニア人とスキタイ人は別系統だと思うので、 シオニスト=スキタイ人=バビロニア人て???となるのですが・・・
それにしてもアシュケナズは行動範囲が広いですね。
ヤペテの子孫たち
「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」(創世記10:2)
>ヤペテの子「ゴメル」は小アジア地方(今のトルコ)や、ヨーロッパ地方に移り住んだ民族です。
>聖書は「ゴメル」の子孫は、
「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(創世記10・3)
>であった、と言っています。
>「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことで(ヨセフス)、今のアルメニア人の先祖です。彼らはいずれも、小アジア(今のトルコ)に移り住みました。
>つぎに「アシュケナズ」もおもに小アジアに移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。
>ユダヤ人はドイツ人を(またドイツ系ユダヤ人も)、「アシュケナズ」の名で呼んできました。
>チュートン(ゲルマン)系は、マダイ・ゴメル
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seisho4.htm
>☆ゴメル Gomer :キンメリア Cimmeria 黒海の北岸地方にいた部族。
アッシリアとウラルトゥの文書にガミル人として表れる。
彼等は紀元前八世紀にアッシリアへ初めて入った。
クリミア半島の名はこの部族名に依る。
ウラルトゥ国には北方より侵入し同国の衰退を来し、
アッシリアの滅亡にも加担した。
http://matmkanehara-momo.blogspot.jp/2013/11/1_11.html
>キンメリア人は小アジアを席巻してウラルトゥ(アララト)王国を攻め,小アジア東部に進入しましたが,その地のカパドキアを指すアルメニア語のガミルクという呼び名に,キンメリア人の侵入の名残が見られるように思われます。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001740
キンメリア人(キンメリアじん、英語: Cimmerians, Kimmerians, 古典ギリシア語: Κιμμέριοι)は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。ギリシア語ではキンメリオイと呼ばれる。そのため、彼らの住む地域(南ウクライナ)はキンメリアと呼ばれた。
キンメリア人の進路(ピンク)と周辺国(水色がコルキス王国、黄色がウラルトゥ王国、紫が新アッシリア王国)。 715-713 BC
>スキュティア人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方に移ったという。今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。— ヘロドトス 第4巻11
>キンメリコンは、以前は市で半島の上に位置し、堀割と堤防で地峡を封鎖していた。ボスポロス地方ではかつてキンメリア族が大きな兵力を保有し、この地方に「キンメリア」の異名が付いたのもこのためだった。そして、黒海右岸からイオニア地方にかけての内陸諸地域の住民を追出した。それから、スキュタイ族が後者をこれらの地域から追払い、そのスキュタイ族をギリシア人が追払ってパンティカパイオンをはじめとするボスポロス地方諸都市を建設した。— ストラボン 第11巻第2章5
>ストラボンの時代、現在のケルチ海峡はキンメリオス・ボスポロス海峡と呼ばれていた。その様子と名の由来をヘロドトスとストラボンは以下のように記している。
いまもスキュティア地方には、「キンメリア砦」とか「キンメリア渡し」[3]とかがあり、キンメリアの名で呼ばれる地方もあれば「キンメリア・ボスポロス」と呼ばれる海峡もあるのである。— ヘロドトス 第4巻12
>その(ポセイドニオスの)推測によると、キンブリ族は盗賊と放浪を常とする部族なのでマイオティス湖(現在のアゾフ海)周辺まで遠征を行った結果、この部族の名からキンメリオス・ボスポロス海峡という呼び名ができた。ギリシア人がキンブリ族をキンメリオイという名にしたので、キンブリコスというべきところをキンメリオスと呼んだ。— ストラボン 第7巻第2章2
>山ではもうひとつキンメリオン山もおなじ山岳地帯にあり、山名はキンメリオイ族がかつてボスポロス地方に勢力を張っていたことから来ている。マイオティス湖口につづく海峡を総称してキンメリオス・ボスポロスと呼ぶのもこの歴史に基づく。— ストラボン 第7巻第4章3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
>スキタイの西進によるキンメリア人の南下
>スキタイは初めアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ(一説ではイッセドネス人)に攻められた結果、アラクセス(ヴォルガ)川を渡ってキンメリア地方(黒海北岸)に移り、そこにいたキンメリア人を追い払って代わりに住みついた。
>この時、キンメリア人はスキタイ襲来に先立ち、王族側の徹底抗戦派と民衆側の逃走派に分かれていたが、王族側が国土をすてて逃走するより祖国で死んだ方がいいということで、全員殺し合って死亡した。
>残った民衆側は王族たちの遺骸を埋葬すると、海岸沿いに逃げてアジアに入り、シノペ(現在のシノプ)のある半島に落ち着いた。
>スキタイはキンメリア人を追ってカフカス山脈を右手にしつつ南下したが、道を誤ってメディアの地に侵入した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
・ゴメルの子孫ハザール
>ハザールの王は自分達をキンメリア(ゴメル)の子と明かしている。 ハザール人はコーカサスの先住民と学者に推定されている。
> 現に東のギリシャ系騎馬民族「スキタイ」から追われ、さらにキンメリア人は南に追われた。
>これはイスラエル建国までのドイツ・ソ連のユダヤ事情と似ている。 彼らはギリシャ人から畏れられていた。
>クリミアとヒペルボレアの国である。 かのカルトヴェリ人のスターリン達はスキタイの子であるウクライナ人をホロドモールで弾圧、さらにスキタイ系のクリミア・タタール人を追放、クリミアにダーチャを構え、クリミアにユダヤ自治州を建国させようとしたという。
>これもカガノヴィッチ(カガンの子)と同じくゴメルの子と伝えられるアルメニア人のミコヤン達もこれにも関わっている。
http://www.geocities.jp/worldgovernment2002/
>国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
>「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。その子孫の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。我々は7番目の息子ハザールの子孫である」。
>このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に「ハザリア」という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_asukenajico.htm
>The Universal Jewish Encyclopedia
>“カザール、多分Volga Bulgarsに関係している中世の人々で、その支配層は、8世紀にユダヤ教を受け入れた。カザール人は6世紀に、東欧のステップ地域とボルガ川流域から中国国境へと拡大していった、巨大な遊牧民であるフン族の帝国から現れたようだ。カザール人の起源は、紀元200年ごろではないかとの主張も、しばしば見受けられるが、実際には、彼らに関して627年にならないと記録がない。多くのユダヤ人の歴史家は、カザールの王がユダヤ教に改宗した日時を、7世紀前半としている。
>“もちろん、このことは、創世記の聖約の話によって霊感を受けたとはいえよう;
>しかしカザール人は、主と聖約を交わしたとはいえ、あまりにも選民の地位を主張しすぎる。
>かれらは、血縁的に言えば、アブラハムの子孫ではないのだから・・・
>カザール人は、セムの系図であるとの主張は、通らないし、カザールの血統を遡るならば、セムではなくノアの三男ヤペテ、もっと正確に言いうならばヤペテの孫、トガルマに行き着く。
>トガルマは、あらゆるトルコ系種族の先祖であるのだ。我々は父祖の家系図の中に、そのことを発見する。
>トガルマには10人の息子がいて、彼らの子孫の名は次の通りである;
>Uigur,dursu,Avars,Huns,Basilii,Tarniakh,Khazars,Zagora,Bulgars,Sabirである。
>我々(カザール)はKhazarの末裔であり、7番目・・・”(第十三部族、アーサー=ケストラー 58_82ページ)
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/b101.html
なんで遊牧民のハザール人がユダヤ人を名乗ったかというとそれほど悪気は無くて、ユダヤ教信じるんだからアブラハムの子孫でいいじゃん、ノアの三男坊ヤペテの子孫で信仰持ったのが遅かったからってセム人やハム人に先輩面されるのもウザイし、みたいな軽いノリだったのではないでしょうか。
>しかしカザール人は、主と聖約を交わしたとはいえ、あまりにも選民の地位を主張しすぎる。
いやいやいやいや!
当時のキリスト教国のほうがもっと強烈だったのではないでしょうか。
イスラム教国なんて現代でも・・・
多分これも一神教を信じたのが遅かった引け目とコンプレックスの所為かも知れません。
さもなければ、ヒトラーに「ユダヤ人は死にさらせ!」とか言われた時も、「人違いです」って言うはずです。
でも、言わなかったんですよね・・・そのせいで・・・
「英国の原住民はヘブライ起源、という説・・ケルトの古さに関して」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/b52162a12d6f6cc4f31d4a9ad8025503
>「キンブリ」とは放浪の民で、海峡から森林地帯まで広範囲に居住し、ケルト人と隣接して活動していた北方民族である。
>ゲルマン族の一部族であるキンブリー族は厳密にはケルト人ではない。
>しかし首狩り、人身御供、聖なる大がまの利用などの祭儀に関しては、ケルト人と同じ習慣を持っていた。
>カエサル、ストラボン、タキトゥスは皆、ゲルマン族の女祭司について記し、その主な役割は占いであり、予言の多くは戦争に係るものだったと述べている。
>すなわちヤペテの子であるゴメル族は、「ゴメリ」と呼ばれるが、この名称の音韻はギリシア人の記録にある古代ヨーロッパの民族「キンブリ」と類音であり、またキンブリと同義の「キンメリ」と「キムリ」(ウェールズ人・ウェールズ語)が類音であると考えられた。
>このことから、ウェールズ語はヘブライ語であったという説や、サクソン人の祖先である「キンブリ」族の言語こそアダムとイブによって話されていたヘブライ語だった、という説が唱えられたのであった。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0-%E4%B8%AD%E6%B2%A2-%E6%96%B0%E4%B8%80/dp/4000006452
>WIKI「キンブリ・テウトニ戦争」より
>キンブリ・テウトニ戦争とは、紀元前2世紀の終わり(紀元前113年-101年)に民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人が、共和政ローマの本拠地であるイタリア半島へ侵攻したことによって起きた戦争である。
>TGEパウエル著「ケルト人の世界」より
>紀元前113年、アルプス山脈東部にあったケルト人の王国が北方からの侵入者と闘うのを支援するためにローマは派兵したが、敗れてしまった。
>この侵入者はキンブリー族という名で知られる。
>彼らはケルト人の地を漂泊した。
>とかくするうちにチュートン族と呼ばれる人々が彼らに合流したが、このチュートン族は不確かながら北方を原郷土とする人々であり、二つの合体した勢力はローマ軍を破った。
>彼らがいかなる民族であるかを軽々に推断すべきではない。
>知られている彼らの指導者の名はすべて純粋にケルト的であり、チュートンという名称は「人々」を意味するケルト語のラテン形である。
>名前が似ているため、キンブリ族と "Cymry" と自称するウェールズ人を結びつけることがあった[7]。しかし、"Cymry" という語はケルト語の *Kombroges から派生したもので「同胞」を意味し[8]、ローマ人がそれを "Cimbri" と記録したと考えるのは無理がある[9]。この名称は kimme(外縁)という単語とも関連付けられ、「海岸の人々」を表した[10]。最終的に古代以来、この名前はキンメリア人の名前とも結びつけて考えられていた[11]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E6%97%8F
※繰り返しますがオリジナルのユダヤ人であるヘブライ人はセム系、バビロニア人の一種です。
ノアの子孫=ヘブライ人、ヘブライ語話す人って言いたいのでしょうが、それを言ったら全世界人類皆ヘブライ人です。
ちなみに「サクソン」も「アシュケナズ」が訛った名称のようです。
「アシュケナズ」から頭韻「A」と脚韻「Z」が取れた形なのですね。
>フランク人がラテン人と同じトロイア起源論を信奉していたのに対し、ザクセン人はジュート人と同じくスキタイ人が自分達の祖先であると考えていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%BA
>ジュート人は、イスラエルの失われた10支族の内の一部族や、中央アジア北西部から西進したスキタイの一派とも推測する人々もいるが、古代イスラエルの系統とされることに関しては非常に疑わしい部分が多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%BA
キンメリア人とチュートン人(テウトネス=ドイツの語源)が同じゴメルの子孫ですが、デンマークには「キンメランド」という土地もありますから、ゴメルの子孫である、ということですね。
だから昔からデンマーク人はドイツ人と仲がいいんでしょうね。
>アッシリア史料における「ギミッラーヤ」
>前8世紀末~前7世紀のものとされる新アッシリア時代の楔形文字碑文および粘土板に、「ギミッラーヤ」(もしくはガメラーヤ)と呼ばれる集団が記されている。音声上の類似からこれをキンメリア人に比定されている。
>紀元前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめるが、征服には至らなかった。
>紀元前705年、ギミッラーヤがアナトリアに侵入したため、サルゴン2世は再び遠征を行ったが、その途中で陣没してしまう。
>紀元前679年~紀元前676年頃、サルゴン2世の孫にあたるエサルハドンはキリキア地方でギミッラーヤの首長テウシュパとその軍勢を撃ち破り、祖父の仇を討った。
>紀元前650年~紀元前645年頃、リュディアの王ググ(ヘロドトスのいう「ギュゲス」)がギミッラーヤに攻められ、アッシリアに援軍を求めたが、間もなく殺され、その墓も略奪された。
>この頃のギミッラーヤの王はアッシリア史料で「ドゥグダッメ」と記されているが、これはストラボンが上記で記す「リュグダミス」のことと考えられている。
>この後ドゥグダッメがアッシリアのアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)と同盟を結んだ可能性もあるが、紀元前640年頃にキンメリア軍はアッシリア軍に敗れ、ドゥグダッメもキリキア地方で死んだとストラボンは記す(上記)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
>紀元前7世紀の終わり頃、キンメリア軍はリュディアの王アリュアッテス(在位:前610年頃 - 前560年頃)に敗れ、その姿をほぼ消した。
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「ゴメル」という地名はベラルーシにあります。
返信削除http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%AA
「洪水後の70種族の表」‥それぞれの子孫,もしくはそれら子孫の住み着いた地域
返信削除ヤペテ、「アーリア語族」 インド・ヨーロッパ系(14種族)
ゴメル キンメリア人、黒海の北
アシュケナズ 黒海の南東
リファト パフラゴニア人
トガルマ アルメニア人
マゴク ?
マダイ メディア人、カスピ海の南
ヤワン イオニア人、南東ヨーロッパのギリシャ人
エリシャ ギリシャ近辺
タルシシュ 南西ヨーロッパのスペイン先住民
キッテム キプロス
ドダニム(ロダム) ロードス島とエーゲ海の島々
トバル 小アジアのティバレ二人
メシュク 小アジアのフリギア人
ティラス エーゲ海の島々と沿海地方のティレ二ア人
http://internetviking.at.webry.info/201107/article_1.html